2017年9月9日土曜日


牧師の日記から(126

 93日(日)主日礼拝。マタイ福音書31719の講解説教。「後ろめたい」という言葉がある。「疚しいことがあるので気になる」という意味で用いられる。辞書を調べて、この語源が「後ろ目痛し」からきていることを初めて知った。つまり「背後からの人の視線が痛い」という意味。これを信仰的に言い換えれば、私たちキリスト者には常に神からの視線が注がれていて、それを覚えるという意味になるのではないか。定例長老会は約45分という記録的短時間で終わる。夜、北支区の機関誌「北斗星」に宗教改革500年についての短い随想を書いて送稿。

4日(月)この夏、新しいコンピューターを導入して、その慣し運転で時間を取られている。つまり入力する用語や人名をすべて覚えさせなくてはならないのだ。世間では、年を取るとこれが最後の車になるかと考えるらしいが、私にとってこれが最後のPCになるのだろう。これまでワープロから始まり、NEC98マシーン、そして何台かのノート・パソコンを使ってきたが、これが最後のPCになるわけだ。画面が大きくなり、速度も速くなったが、インターネットとの接続が電波の関係でうまくいかないのが難点。ルーターをもう少し高性能な機種に変えなければならないようだ。夜は、王子教会での北支区常任委員会に出席。

5日(火)午前中は賛育会病院で定期検診。Hga1cの値が基準ギリギリで、これを越えると薬を飲まなければならなくなると注意される。その後、肺炎球菌のワクチン注射を受ける。夕方から、イグナチオ教会ヨハネ・ホールで開催されたキリスト教書籍販売のトーク・イベントを聞きに行く。出版社、編集者、書店のそれぞれの立場からの発言が興味深かった。帰りに一緒になったCJCの郡山千里さんと四ッ谷駅前でお茶を飲む。福音派の『クリスチャン新聞』(『キリスト新聞』に非ず)創刊50年号に原稿を依頼されているので、創刊当時の様子を聞く。

6日(水)午前中、久しぶりに聖書を学ぶ会。レビ記25章のヨベルの年の規定を取り上げる。本来は7年毎に畑も休耕しなければならないという連作禁止の規定。それが7度の安息年を重ねた50年目を「ヨベルの年」として、すべての債務を帳消しにするという経済政策に拡大する。イスラエルがカナン定着後、農耕生活に移行すると、結果として貧富の格差が拡大し、継業の地の売却や債務奴隷が生まれ、その格差是正のために策定されたとされる。実際にはその実施は困難だったようだが、3000年近く昔に、このような格差是正の理念があったこと自体が驚き。50年というのは人間の一世代に相当する。夜、浦安教会の招聘委員会に出席する予定だったが、市川三本松教会で葬儀が入り、延期になる。

7日(木)朝10時からNCAの仕事。6階に東京YMCAが入居することになったのでそのうち合わせ。その後、早稲田奉仕園、AVACOとの三者協議会。
8日(金)午前中、年金事務所へ。今月で満70歳になるのでその手続きのため。つくづく自分の年齢を考えさせられる。夜は信濃町教会で行われた社会委員会の会合に出席。ようやく夏が終わり、少しずつ仕事が入って来た。(戒能信生)

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