2017年7月1日土曜日

牧師の日記から(116
 625日(日)主日礼拝。出エジプト記3章の講解説教「道を逸れて」。ミディアンの地に逃れたモーセが、一介の牧羊者として神と出会うテキストに「道を逸れて」という表現が二度繰り返して用いられている。「道を逸れて」と訳されたヘブライ語surは、「離れる」「迷う」「曲がる」などのニュアンスをもつ。民族の伝統や宗教的聖性から切り離されたところでの神との出会いが強調されていることになる。まっすぐ一直線ではないところで、モーセは神に出会ったというのだ。礼拝後、週報や『羊の群』の発送作業。フルート・アンサンブルらふぁえるの練習日で、夕方まで礼拝堂にフルートの音が流れる。
26日(月)午後から『時の徴』の編集委員会。仙台や鹿児島からも編集同人計8名が集まり、これからの編集について協議した。夜は日本聖書神学校の授業。
27日(火)午前中、北支区の教師部例会に出席のため石神井教会へ。王子北教会、石神井教会、そして小石川白山教会の三つの教会の歩みと課題への取り組みを聞く。現在の教会の様々な課題にについて考えさせられた。午後帰宅して、来週の定例長老会のアジェンダ案を作成して、書記の荒井さんにメールで送る。
28日(水)この日は梅雨らしく一日中雨。午前中、聖書を学ぶ会でレビ記の学びに入る。一見煩瑣で退屈な祭儀規定から破局の中にあるイスラエルの信仰理解を読み解こうとするが、なかなか難しい。このところ時間に追われることが多かったので、この日はのんびり書斎でまどみちおの詩集を読む。まどさんは、若き日に台湾でホーリスネの信仰に触れ受洗している。後年教会生活からは離れたが、その詩には素朴な信仰の流れがある。例えば、「いちばんぼしがでた/うちゅうの/目のようだ/ああ/うちゅうが/ぼくをみている」という「いちばんぼし」という短い詩。「知られたる我」とも言うべき視点ではないか。原稿の締め切りや調べものは放り出して、こういう詩に触れる時が一番心安らぐ。
29日(木)朝からキリスト教会館に出向き、NCAの発送作業や管理組合の仕事。帰宅したところに武蔵野教会の佐々木潤牧師から問い合わせ。教会員の中に、戦前の大久保同胞教会と小石川基督教会からの転入者がいるが、これらの教会がどの教派に属していたか不明なので教えて欲しいとの依頼。私のPCに教団の各個教会の履歴が入っているので、たちどころに判明してお応えすることができた。
30日(金)午前中、教会と隣接地との境界確認に立ち会う。お昼に関西学院をこの春退官した友人の神田健次さんが訪ねてくれる。宣教学会が上智大学であるため上京したのだ。来年3月の神学生交流プログラムで講師をお願いしている。昼食を共にしながら楽しく歓談。出版社から『キリスト教講話集』Ⅳの再校が届く。来週末までに戻さなければならない。夜は、来週のNCAプログラム「編集者にその本音を聞く」の質問事項を作成する。

71日(土)11時から、北支区教育部委員会が千代田教会で。71617日の一泊キャンプの打ち合わせ。私は早稲田奉仕園での会合に出席。(戒能信生)

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