2016年2月13日土曜日

牧師の日記から(45「一枚の銀貨を捜して」
29日(火)の夜は、日本クリスチャン・アカデミー主催の聖書講座『イエスの譬え話を読む』(講師・山口里子さん)の最終回で、ルカ福音書1589の「無くした銀貨の譬え」が取り上げられました。これと並んで語られる「失われた一匹の羊」(1546)の譬え話は、迷子になった羊をどこまでも探し求める羊飼いを神、あるいはキリストの比喩として、迷子の羊を私たち人間として解釈されて来たのに対し、この一枚の銀貨を懸命に探した女性の方は、神やキリストの比喩としては理解されて来なかった。そこにジェンダー(性差)バイアスがあると里子さんは指摘します。この譬え話の本来の要素としては、失くしたもの(一匹の羊、一枚の銀貨)を一生懸命探しまわり、ようやく見つけたら、みんなと一緒に心から喜んだというところにあるというのです。そして、福音書に伝えられているイエスの譬え話を、実際のガリラヤの民衆が聞いたメッセージとして改めて読み直さなければならないと言われました。大変示唆的で、いろいろ考えさせられました。
しかし私は里子さんの解釈に刺激されて、全く別の連想をしたのです。この国の江戸末期から明治維新にかけての社会変動期に、様々な新宗教が生まれています。しかもその多くは女性を教祖とするもので、例えば天理教の教祖・中山みきや大本教の開祖・出口なおがその典型とされます。彼女たちは、貧困と様々な家庭的不幸を経て、中年になって神がかりし、それぞれ独自の宗教を起こすのですが、その最初期の活動の一つとして、近隣の人々の「失せ物」相談に乗ったと伝えられています。つまり「失くした物」の相談に預かって、それを発見する予言をしたというのです。私は日本宗教史の授業でこれらの新宗教を取り上げて来ましたが、ルカ福音書の「一枚の銀貨を探し求める女性」の譬え話と結びつけて考えたことはありません。しかし里子さんの解釈をヒントに、中山みきや出口なおが、近隣の貧しい女性たちの日常生活の細々した相談に乗る中で、一緒に失せ物を捜し求め、見つけたら共に喜んだエピソードとして共通点があることに改めて気づかされたのです。
「見失った羊」や「失われた息子(放蕩息子)」の譬え話は、しばしば取り上げられますが、女性を主人公とするこの「失くした銀貨」の譬え話はほとんど注目されません。しかし女性たちの悲しみや苦悩を共に担い、また失われた物を一緒に捜して、見つけた喜びを共にした女性教祖たちの原風景と、それはどこかでつながっているのではないでしょうか。

山口里子さんの聖書の読み方は、彼女の主張や解釈を押し付けるのではなく、もう一度聖書を読み直し、自分自身の生活や経験と折衝する中で考え直す材料を与えてくれます。4月から、今度は『いのちの糧の分かち合い』(新教出版社)を取り上げる新しい講座が始まります。(戒能信生)

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