2015年7月9日木曜日

牧師の日記から⑭「日本美以四谷教会のこと」

先週紹介した四谷浸礼教会よりもさらに早く、この四谷の地に伝道を開始した教会があります。明治171884)年に四谷区傳馬町1丁目に借家して始まった日本美以四谷教会です。初代牧師は河村天授牧師。明治21年に、四谷坂町96番地(現在の千代田教会から100mほど西、教会の前の道路を津の守坂の手前で左に折れ、新宿歴史博物館に上って行く坂の途中右側)に土地を求めて会堂を献堂します。616日の献堂式には150席が満席になったと記録にあります。教勢は徐々に進展し、本多斎牧師(本多庸一の実弟)の時代には、教会員数64名、礼拝出席平均49名、日曜学校出席平均60名となり、「ミス・ホールブルック来りて王女会を創立し、編物、刺繍、帽子制作、料理などを教えられた。そこには多くの名流夫人も出入りし、東條英機元首相は当時学齢前で母親に連れられ出席していていることが写真に残っている」そうです。牛込区東大久保に開拓伝道を始めるなど盛んに伝道していましたが、明治34年、その大久保教会と合同して教会名称を「城西教会」と変更します。青山学院の神学生時代の思い出を武藤健牧師(後の本郷中央会堂牧師、日本基督教団議長)が次のように書き残しています。「私が城西教会に通い始めたのは大正24月頃からであった。……青年のエネルギーは伝道の方にもよく発散され、夕ともなれば、私たちは街頭に出て讃美歌を歌い説教をした。元の陸軍士官学校下など、その古戦場である。日曜夜の集会は若い者に任されていた。私たちは交代で所感を語り、証しした。」また、大正期に牧会した増田金四郎牧師は、「当時の会堂は、四谷坂町の狭い通りの行き止まりに近い、あまり人通りのない所にありました。建物は、教会堂というよりはバラックといった方が適していました。天井は低く、未だガス灯が下がっていました」と回想しています。そういう立地が問題になったのでしょうか、昭和91934)年、「多年懸案であって容易に長年実行しかねていた教会移転のことを、郊外伝道進出の為に敢行し」、渋谷区代々木西原町969に会堂を建築して移転します。この城西教会は戦災で焼失しますが、同じ場所(現在の京王線幡ヶ谷駅近く)に戦後再建され、幼稚園と共に今も健在です。(『日本基督教団城西教会八十年史』1963年を参考にしました。)(戒能信生)

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